再見「ロングランエッセイ」の+と-

20:「内の外」と「外の内」  住宅雑誌リプラン35号(1997年1月1日)より一部転載

京都のお寺に行くと幅一間の縁側が、手入れの行き届いた庭に向かって解放されている。縁側も屋根が付いているが、ほとんど庭の中にいるようである。
さらに、軒先が縁側より一間も長く庭に向かって差し出されているので、軒の下まで庭が入り込んでいるように見える。
縁側とその先の軒先空間が、外の庭と内の座敷の間を滑らかに流れるようにつないでいて、外のようでもあり、内のようでもある中間の領域である。このおかげで、庭の雰囲気は、ずるずると座敷の方まで入り込んでくるので、家の中に爽やかさが広がる。
私は裸足で歩ける縁側は、内なんだけれども外に近いので「内の外」雨が掛からない軒先は、裸足で歩けないので外なんだけれども内に近いので「外の内」と呼ぶ。
北海道では厳しい寒さを防ぐために、内と外をはっきり分けすぎてしまったので、住まいの中に外の爽やかさを取り込めなくなった。近ごろの住まいに、吹き抜けを付けるのが多いのも、その爽やかさを利用して、外の爽やかさを感じさせる「内の中にある外」を造ろうとしているからである。住まいの外に、内から使い易い中庭やデッキを造るのも、なんとか内に近寄った「外の中の内」を造ろうとしているのである。

+:これまで、「うちのそと」を重きにして、そとのような内部を創って、主に吹き抜けを使って、立体的な空間構成を考えてきた。かつて、北海道が推薦していたブロック三角屋根住宅の中央居間両サイドに個室のある平面を立体的にして、空間の魅力を創ってきた。
今、「うちのそと」ではなく、「うちのうち」というのに、興味を持ってきた。うちのなかに外のような広がりを持つことより、うちのなかに、心棒のような、臍のようなうちの芯になるところが欲しい。「開放的なうちのそと」をつくってきたせいか、かつての床の間、仏壇、書斎だなのような、精神が穏やかになる、心落ち着く処が必要になってきたように思える。
簡単、便利、気持ち良いの価値観が、蔓延しすぎたことの反省だとも思うが、簡単、便利、気持ち良いの裏にあるものに気がついてきたせいでもある。